エッセイ  わが街わが友 (最終回) ニューヨーク
2003年の10月、私は、夫の赴任でNYに移り住んだ。
仕事は、日本と往復でするが、NYでは、駐在員の妻。

ダンスを習い、美術館にも行き、オペラやミュージカルも観る。
正に、芸術三昧の毎日。
生まれて初めて、油絵も始めた。
意外にも先生に「グレイト!」と賞賛され、展示会に出してみたら絵も売れて驚いた。
次々と絵画がリビングの壁を埋めていく。
ある日、並んだ絵を見ながら、ハタと気がついた。
「 私がNYで残すものは、コレだったのかな・・ 」

女優として、残すものは、他にあるはず。
あの作品、私が脚本を書き、上演した二人芝居。
私とわたしとあなたと私
 
その日から、友人達と英訳をし、プロダクションに持ち込む、長い闘いが始まった。
日本から多くの作品がNYに来て、凱旋していく。
でも大半は、NYに住む日本人の為のもので、アメリカ人は、まず観ない。
大人の為の芝居「私とわたしとあなたと私」は、必ずニューヨーカーの心も掴むはず。
脚本を読んだプロデューサーは大きく頷き、公演への道を引き受けてくれた。

私とわたしとあなたと私」は、「I and Me & You and I」と名前を代え、
まずは、「リーディング」と呼ばれる朗読会を、2006年の4月に行なった。
本読みをし、その反応如何で、本番への道が開ける。
作品は無事、ステージへの切符を手に入れることができた。

演出は、アメリカ人。
相手役はオーディションを勝ち抜いた女優。
I and Me & You and I」は、今、NYの舞台にデビューした。
しかも、オフ・ブロードウェイの劇場。
夢の、オフ・ブロードウェイ!
 
思い起こせば、大学時代「教師」の内定を断り、「劇団」に入り、
フジテレビ「アナウンサー」の寄り道はしたけれど、
このオフ・ブロードウェイの舞台に立つ為に、私は今まで、歩んできたのかな・・・。

人生というのは、本当に、「一本」に繋がっている。

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( 東京新聞 2007 11/29 掲載 )

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エッセイ わが街わが友 9 銀座
2002年の夏、私は、銀座みゆき館劇場の舞台に立っていた。
二人芝居「私とわたしとあなたと私
ひょんなことで、私は、自分で脚本を書き、演出し、出演していたのだ。

前年の暮れ、映画で共演した新人の女優が、一緒に、芝居をやろうと持ちかけてきた。
彼女が脚本を書き、私が演出の担当だと言う。
実現できるとも思わずに、軽い気持ちで,
「いいよ」と答えた。
彼女は、早速劇場を押さえ、しばらくして、出来上がった脚本を見せてくれた。
あれれ・・・その脚本では、舞台にはできない、芝居の話は白紙だね。
しかし、せっかく押さえた劇場をキャンセルすることになり、
泣き出しそうになった彼女を見て、慌てて、私は叫んだ!
「 だいじょうぶ! 私が、脚本、書いてみるから・・ 」

人生に絶望した、中年の女子銀行員「洋子」と、
若い風俗嬢、「ポタン」が織り成す、二人芝居。
とにかく、おかしくて、ハラハラして、でもジーンときて・・・
始めて書く脚本に、私は全てを入れ込んだ。
40代にもなり、私自身、何かに絶望していたのかもしれない。
その自分自身を奮い立たせるように、作品を仕上げた。
作品の鍵は、二人の中身が入れ替わること。
すなわち、私が、ほとんど、若い風俗嬢を演ずることになる。
役者としても、大きな挑戦の芝居だ。

舞台初日の芝居が終わった。
お客様を送り出す。
でも、皆、ほとんど無言。
「 おもしろくなかったのか・・・ 」
不安になり、ふと出口を見ると、何人かが、すすり泣いていた。

次の日、厳しい評論家の方から、分厚い手紙が届けられ、
「この船出は大成功!」と書かれていた。

2003年、相手役は「吉川ひなの」に代わり新宿シアタートップスで再演となった。
銀座から新宿へと移った「私とわたしとあなたと私」。
そして、2007年秋、アメリカ、NYのオフ・ブロードウェイで、
この作品が、新たに生まれ変わるとは、夢にも思っていなかったのである。

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( 東京新聞 2007 11/28 掲載 )

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エッセイ  わが街わが友 8 晴海埠頭
「オレたちひょうきん族」で人に知られるようになった私は
アナウンサーにも関わらず
ドラマにも引っ張り出されるようになった
もともと役者だった昔の思いもあり、
その後、私は、フジテレビを退社した

フリーになって三年経過した1988年、
私は、印象的な初舞台を踏むことになる
銀座セゾン劇場 「きらら浮世伝」(横内健介作)
江戸時代、写楽を世に出した蔦谷重三郎という版元の話だ
主役の中村勘九郎(現・勘三郎)さん、
中村浩太郎(現・扇雀)さんら歌舞伎界を始め
川谷拓三さんや美保純さんに加え
若松武さんら小劇場出身者もいて
多彩な役者が、勢ぞろい!
しかも、演出の河合義隆監督を囲んで
商業演劇にもかかわらず
まるで小さな劇団のように、
密な稽古が勝どきスタジオで、毎日行なわれた
「 密な 」というのは、どういうものか? 
要は、出番がなくても、全員が精魂尽きる程、稽古に参加し
稽古の後は近所の酒屋のカウンターで毎日立ち飲み
議論し明かす
情熱舞台の勢いが、そのまま酒屋まで飛んで
熱い仲間になっていた

ある夜のこと
その日はお酒を飲まなかった浩太郎さんが運転をし
勘九郎さん、若松さん、河合監督と
真夜中のドライブに繰り出した
皆、大酔っ払い! 
晴海埠頭で行き止まりになった
「 車ごと海に飛び込もう! 」
・・・ 誰が発案したのか ・・・
最初は、ワハハワハハ・・・
冗談だったのに、だんだん興奮高まり、車外へ!
真剣に、暗い東京湾に向かって叫ぶ!
「 行くぞ〜! 」
「 飛び込め〜! 」
暗闇の埠頭に、ガンガンしっかり響き渡る声
突然
素面の浩太郎さんが、顔を真っ赤にさせて、激怒した!
「 いい加減にしろぉ〜! 」

シュンと、酔っ払い達は萎んだ。

今でも、勘三郎さん、扇雀さんに会うと
この真夜中の乱痴気ドライブの話が出る
本当に一歩間違ったら
日本は、大切な国宝をなくしていたかもしれない・・・
暗闇の晴海埠頭、懐かしいな・・・

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( 東京新聞 2007 11/27 掲載 )

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エッセイ  わが街わが友 7 代官山
「 楽しくなければテレビじゃない! 」
1981年、フジテレビのスローガンが変わり、大改革が行なわれた。
同時に、レポーターの名称も、アナウンサーへと戻され、
今までニュースしか許されなかったのが、出演番組の規制も緩められた。
 
アナウンス室長に呼ばれた。
「嫌だったら、断っていいからね・・・ひょうきん族って番組、出てみる気、ある?」
室長は、おずおずと、尋ねた。
それまで、特別番組だった「オレたちひょうきん族」が、レギュラー化され、
司会として、アナウンサーを必要としていたのだ。
ちょうど前日、室長は、私のお葬式レポートをチェックしていて、
「 う〜ん・・・山村君は、こういう落ち着いた感じのものが、いいね 」
と、評価してくれていたはず。
しかし、私はお茶くみの毎日から逃れたくて、訳もわからず、飛びついた。
  
「 ひょうきん族 」は、正に綺羅星のごとく、
お笑いスター達が、体当たりで出演した、伝説の番組だ。
しかし、その中で、私は、葛藤だらけ。
社内では「社員のくせに」と、批判されることもあり、
番組内では、タレントではないので気も使う。
自己表現が思い通りに行かない。
ある日、全てを吹っ切りたくて、刈り上げヘアに、髪を短くしてみた。
その髪型を、出演者がギャグとして突っ込み、結果、司会も順調に行くようになった。
 
しかし、私生活は、そうは行かない。
髪型のせいで、すぐに目立ってしまう。
道を歩いていると、番組の中でタレントさんがするように、ポンポン私の頭を叩いたり
呼び捨てる人達に取り囲まれる「 事件 」が何度もあり、私は神経質になっていった。
その頃、私は、郊外から、代官山の、小さなワンルームに引っ越した。
当時は、今とは違い、本当におしゃれな大人しか代官山にはいなかった。
刈り上げヘアも目立たない。
皆、チラリと気づくけれど、サラリと、無視してくれた。
最高に自由!

人の目を気にせず闊歩できる代官山に、二十代の私は助けられた。

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( 東京新聞 2007 11/26 掲載 )

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エッセイ  わが街わが友 6 河田町
フジテレビに入社した1980年、
全てのアナウンサーは、報道局に配属され、レポーターという名前で呼ばれていた。
一番初めに驚いたこと、それは、廊下に貼り出されていた視聴率表だった。
各局の視聴率の棒グラフが掲げられ、
その中、フジテレビの棒は、他の局に比べて、格段に、低いものだらけ。
ローカル局の東京12チャンネルよりも低い番組もある。
でも、あった! 唯一、他を引き離してトップの番組が ・・・ サザエさん!
 「 大変な所に入っちゃった・・・」

テレビ局の知識もないまま、入社した「母と子のフジテレビ」。
しかし、不安定な役者の仕事ではなく、お給料の頂ける会社員として、
新入社員の私は、高揚した希望に溢れていたと思う。

と、言っても、仕事は、想像していた華やかな世界とは、雲泥の差。
新人は、先輩の為に、お茶を入れ、伝票を書き、物品の処理。
与えられる机も、同期と二人で一つを共有。
テレビにようやく出演出来ても、誰も見ていないような早朝の十五分ニュースか、
来る日も来る日も、「この番組は××の提供でお送りしました」の、提供枠。
アナウンサーとしての経験より、お茶酌みの仕事の方が、熟練して行った。

露木茂さんが、ニュースを終え、戻ってくる。
すかさず、コーヒーを出さなければいけない。
しかも、薄めのアメリカン!
逸見正孝さんには ・・・ 玄米茶、濃い目!
先輩の好みを、徹底的に頭に叩き込む ・・・ それが仕事!
当然、お茶を入れれば、すぐに汚れた湯呑みや、カップが溜まる。
給湯室に運び、洗い、またお茶を入れ、洗う。
一日に、何十回も、アナウンス室と、給湯室との往復。

ある日、手が膨れ上がって、痒くて堪らなくなった。
隣の東京女子医大に診察に行った。
「 こりゃぁ ・・・・ 主婦湿疹だね 」
テレビに出られる仕事もなく、お湯呑みばかり洗っていた毎日。
河田町の、湯気が立ち昇る、薄暗い給湯室が、
私のアナウンサーの出発点だった。

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( 東京新聞 2007 11/23 掲載 )

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エッセイ  わが街わが友 5 曙橋
丸の内線、四谷三丁目駅から、15分程歩くと、フジテレビに着く。
その翌年には、都営新宿線が開通し、「曙橋」という最寄の駅が開通すると、
人事担当者は、言っていたっけ・・・。
フジテレビアナウンサーの、最終面接試験のため、私は、道を急いでいた。

一年近く、劇団に所属したものの、
結局、上演する芝居そのものや、中の体質が合わなかったのだろう、
私は、女優をあきらめ、「 堅気 」の仕事に戻ろうと、大学を卒業した秋に、
「 想い出作り 」のように、テレビ局の入社試験を受けていた。

「 目標とするアナウンサーは、誰ですか? 」
試験官の質問に、戸惑った。
「 アナウンサー 」を目指したことなどなく、
それこそ、アナウンサーの名前なんて、誰も、思いつかない。
口篭りながら、突然、閃いた、その名前・・・
「 あのう・・野際陽子さん! 」
昔、NHKにいらしたという女優さんの名前を思い出し、苦し紛れに、答えた。

全てが万事、この調子だった。
専門の養成所に通っていた他の受験者とは、明らかに、発声法も、違った。
私は、芝居以外で、あの高いトーンの喋りは、恥ずかしくて、出来なかったし、
ビデオを見ながらのレポートも、しどろもどろで、目も当てられなかった。
良く最終試験まで残ったもの ・・・ でも、もうダメだろうな ・・・
・・・ 今日の面接では、他の受験者のように、アピールも出来なかったし・・・。
私は、外苑東通りの橋の上にもたれ、夕日を眺めながら、大きくため息をついた。
合計7回も、試験場であるテレビ局に通い、
途中の、この橋が、私のお気に入りの場所となっていた。
そこから見る秋の夕日は、息を呑む程、真っ赤で美しい。
「 ハハ・・・・・今日でお別れだ 」
石に刻み込まれた「曙橋」という文字を、私は何度も撫でて地下鉄の駅に踵を返した。

その後、なぜ私が、フジテレビのアナウンサー試験に合格したのか、今もって不思議だ

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( 東京新聞 2007 11/22 掲載 )

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エッセイ  わが街 わが友 4 新宿歌舞伎町
秋晴れのある日、私は、長い列に並んでいた。
列の先頭は、地下の劇場に繋がっている。
「シアター365」という名の劇場は、歌舞伎町の裏手の路地にあった。
当時、絶大な人気を誇る劇団「東京キッドブラザーズ」の芝居チケットを買うため、
多くの人が並んでいたのだ。

女優になりたいという夢を持ちながら、結局何も出来ず、私は、大学四年の秋、
母校である、三重県のミッション系女子高の、教師に内定していた。
母一人娘一人の家族で、母が喜んでくれたことが、唯一、嬉しかった。
一方、自分の一生が決まってしまい、焦燥感でいっぱいの毎日でもあった。
このまま、教師になって、お見合い結婚して、三重県に一生住むのかな・・・・
最後の足掻きのように、出来るだけ沢山の芝居を見ておこうと、
私は、この日も列に加わっていた。

ふと、周りがざわめく。
劇場から、劇団の主宰者、東由多加氏が出てきたからだ。
雑誌の記事では見知っていたが、本人を見るのは初めてだった。
心臓が高鳴った。
足早に進められていた東氏の足が、ふと、私の横で止まった。
目が合う ・・・ 何だろう? ・・・ ドキドキ
少し首を傾げた後、東さんが、唐突に、
まるで、「 君だけに 」と、歌うジュリーと同じ素振りで、私を指差した。
「 あなた! 女優やりませんか? ・・・・・」

次の日から、私は、年末に予定されている、武道館公演の稽古に通うようになった。
母校の教師の内定も断り、母は落胆したが、夢だったからと、最後は励ましてくれた。
夜中までの稽古、中央線の最終電車に遅れないよう、歌舞伎町のど真ん中を、
私は、毎晩、新宿駅まで疾走した。
怪しげな店が続き、猥褻な言葉を投げかける、男達の中を、
22歳の私が、駆け抜けて行く。

ギトギトのネオンも街の悪臭も、薄汚いチンピラ達も、
その頃の私には、歌舞伎町の全てが透明に輝いていた。

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( 東京新聞 2007 11/21 掲載 )

エッセイ | 00:08 | comments(3) | trackbacks(0)

エッセイ わが街 わが友 3 国立
・・・ 桜吹雪の、真っ只中 ・・・
こんなに、堂々と、延々と続く桜並木を見たのも、
身体中に纏わり付くように、花びらが飛び廻るのも、初めての経験
    
中央線、国立駅前、大学通り。
大学の新入生の勧誘で、演劇サークルに入ると決めた私は
先輩の学生に連れられて、四月の風の強い日、国立駅に降り立った。
広い通りも桜並木も、
大学生になって高揚した気持ちに沿うように、踊って見えた。
お隣の一橋大学の劇団「己疑人」のアトリエが、
国立の大学構内に設えられ、私は、その日から毎日、
ひんやり薄暗く,かび臭いクラブハウスのアトリエに通った。
スタニラフスキーとか、ブレヒトとか、
先輩の学生達は、演劇論を論じ、
芝居はベケットや、イヨネスコの不条理劇を、好んで上演、
時には唐十郎さんの作品も選んでいた。
私は、地方の女子高で演劇部に所属していたが、
時々、作品が難解で理解できず、おずおずと意味を尋ねたりした。
しかし、先輩には、小馬鹿にした顔で、
「 芝居ってさ、わかっちゃ、おしまいなんだ!」
と、非難されてしまった。

ある日、東大の五月祭に、皆で、意気込んで、
芝居を見に行くことになった。
「 評判 」の演劇サークルがあると言う。
「 観てやろうじゃないか!!! 」

東大の教室で上演されていた芝居は、荒唐無稽でわかりやすく、
観るものの気持ちを掴んで、ワクワクゾクゾクさせた。

その帰り道、いつもは、激論ばかりの先輩達が、押し黙ったまま、
中央線オレンジ色の電車の中で、揺られていた。
国立駅に降り立った時、一人の先輩が、ポツリと言った。
「 芝居ってさ、俺、何だか、わかんなくなっちまった・・・ 」

東京大学の芝居は、「夢の遊民社」
主宰者で主役は、まだ東大生だった野田秀樹さん。

その日、国立駅前の大学通りは、
サツキの花が、赤、白、ピンクと、模様をなして、
絨毯のように、咲き乱れていた。
あの通りは、学生達の青い思いを、
一年中色を変えながら吸い取ってくれていた。

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( 東京新聞 2007 11/20 掲載 )

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エッセイ わが街 わが友 2 玉川上水
「 ワァ〜、なに? なに? あの、光ってるの? 」
鬱蒼と木々が覆いかぶさる玉川上水の、小さな橋の上、女子大生の私達は叫んでいた。隣の男子学生が、笑った。
「 蛍だよ! 見たことないの? ホ・タ・ル! 」
へえ・・・・・あれが、ホタル?
小川のせせらぎの合間に、チラチラ光る、蛍の幻想的な世界に、
口をポッカリと開けた私は、言葉を失っていた。
三重の田舎育ちなのに、実際に飛んでいる蛍を見たのは、生まれて初めてだった。
伊勢神宮のお膝元で育ったものの、所詮伊勢市も、地方都市、
神宮の森にでも入り込まなければ、蛍を見ることなど、なかった。

田舎から上京し、入学した東京の大学、津田塾大学は、夢見ていた都会とは全く違う、
武蔵野の自然の中に鎮座していた。
大学構内の寮に入った私にとって、この玉川上水は、庭のような存在、
クラスメイトと、悩みの相談は、必ず、玉川上水のベンチだったし、
隣の一橋大学の学生とのデートも「ラヴァーズレーン」と呼ばれる上水沿いを歩いた。

「ストーム」と呼ばれる、一橋大の寮生が津田の女子寮を襲う・・・
所謂、「行事」のようなものがあった。
夜半、男子禁制の寮に、男子学生が入り込むのだ。
女子寮では、裏門の鍵を開け、一橋大生を迎え入れ、見事、部屋突入が成功すれば、
トランプなどをして遊ぶという、他愛無いものだが、
そのストームを阻止する「バットマン」がいた。
津田塾大学のガードマンのおじさん、文字通り、野球のバットを振り回し、
「 ウオォ〜〜〜!! 」と、男子学生を、追い返す。
そのバットでの殴り方が半端じゃなく、骨を折ったとか、失明寸前になったとか、
伝説が残るほどの奮闘振り。
ストームの翌日、夕べ、バットマンに殴られ追いかけられて、上水に逃げ、
川の水で、傷を洗ったんだゼと、自慢しに来た男子学生がいた。
蛍の穴場を教えてくれた彼だった。

遠く思う玉川上水は、実に、甘いな・・・

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( 東京新聞 2007 11/19 掲載 )

エッセイ | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0)

エッセイ わが街 わが友  1 「 新橋 」
突風の吹く、新橋の大通り ・・・ ドキドキと、足早に歩いている高校生・・・
重い緑色の制服のコートを身にまとい、長いおさげ髪の少女は、
怖い都会にだまされないよう、必死に、目的地に向かっていた。
三重県から日帰りで、たった一人で上京した私は、
リクルートのスカラシップ生の最終選考面接のため、
地図で何度も確かめたリクルート本社ビルだけを目的に、ひたすら前に進む。
言うまでもなく、都会の大人達は、そんな田舎娘になんか、目もくれるわけもない。
赤信号でも、颯爽と通りを渡っていた。

リクルートスカラシップとは、今でも続いているが、懸賞論文を書き、選ばれると、
大学時代、何と毎月、奨学金が贈呈される制度だ。
正直な所、忙しい受験勉強中に、教師に無理やり書かされ、閉口したが、
結局贈与される十人に選ばれ、高校の国語の先生には、感謝することとなった。

最終面接で会った、当時のリクルートの社長、江副浩正さんは、若々しく、
全国から集まった五十人位の田舎の高校生達に、優しく丁寧に接してくれ、
子供心にも感動した。
「 皆さんに、日本の未来を作ってもらえるよう、お手伝いをしたいと思っています!」
ハキハキとした口調は、江副さん御自身が、日本の未来を切り開こうと、
瑞々しい意欲に満ち溢れていたと思う。
緊張して面接を待ち、顔が強張っている私の前に、担当の総務の女性が、やってきた。
窓の外に立ち並ぶ、今まで見たことのない高層ビルの景観を指差して、耳元で囁く。
「 ほぅら、ビルの上で点滅しているランプはね・・・
ヘリコプターがぶつからないように、いつも光っているの ・・・・わかる? 」
・・・・ ヘリコプターが、ぶつかってしまう程、高いビルなんて ・・・・
私は、目を丸くして、窓に歩み寄った。

もう、32年も昔のこと、新橋の高層ビル、点滅した光と、江副さんの上気した顔、
都会のお姉さんの香水が、今でも、混ざりながら、くっきりと蘇る。

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( 東京新聞 2007.11/16掲載 )
tokyo shinbun

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