元フジテレビのプロデューサー横澤彪さんが亡くなられた
言わずもがな
「オレたちひょうきん族」のプロデューサー
最後にお会いした場所は、ニューヨークだ
2003年の10月の末
私が、ニューヨークに引っ越して半月位経った頃
NY日本クラブ行われた、
ジミー大西さんの個展に同行していらした
愛犬のビギンが危篤で、不安げな表情をしていた私に
横澤さんは、こう言われた
「犬、病気なの? 14歳? 仕方ないね、寿命だね」
横澤さんらしい言い方だった
冷ややかなようで、温かい
シニカルで、目を合わさず、斜に構えて話すけど
横澤さんとの間の空気は、居心地が良かった
新人アナウンサーだった私がひょうきん族に出始めた時
私は、いつも悩んでいた
その様子を見かねて、横澤さんが、ひょっこり隣に座り、
呟くように言葉をかけてくださった
「 美智子はタレントじゃないんだからさ、
受けようとしなくたって、いいんだよ
アナウンサーのまんまでいいんだから 」
そして、こうも提案してくださった
「 もし番組中に困ったら、
三重県のお母さ〜ん!と叫んでごらん 」
その後、私は芸人の皆さんにこづかれたりする度に
「三重県のお母さ〜ん」を連発し、話題になるようになった
ニュース番組のキャスターをしていた頃、
スタッフが大きなくしゃみをして、スタジオ中に響き
笑って吹き出してしまって
私が、番組を降ろされたことがあった
あの時も、横澤さんは隣にやってきて、言い放った
「あんなもん、美智子、交通事故にあったようなものだから
気にしたって、しょうがないさ 」
やっぱりあの時の横澤さんも
目を合わさない、斜めの横顔だった
私が出る舞台には、足を運んでくださって
「ま、娘みたいなもんだから」と
スタッフの皆さんに、頭を下げてくださっていたっけ
色々、思い出したら
次から次へと湧き出てくる
何かの飲み会の時、先に帰るのでご挨拶して出ようとしたら
横澤さんに、叱られた
「 皆、楽しく盛り上がってるんだから、
わからないように帰りなさい 」
それから私は、出来るだけ、サラリと宴会場を去るようにした
ご病気ではあったけれど、
亡くなる、ほんの2、3日前までお元気でいらしたと言う
あ〜、横澤さんらしいな
サラリと、現世という宴会を退席なさったんだ
NYの日本クラブで
横澤さんの真ん前に立ってカメラ向けたら
ホント、バツが悪そうに、照れていらしたよ
やっぱり、横澤さんは、斜めが良く似合うんだ
沢山、ありがとうございました
でも、やっぱり
最後のご挨拶、したかったです、横澤さん