何から、書こうか
・・・うん・・・
去年の10月のこと
宥久子さんから、電話があった
「 ちょっと、今、話せる? 」
改まって、何?
「 家族以外は、まだ誰にも言ってないんだけど 」
なぁによ?
「私ね、ガンなのよ 」
へ? 何言ってんの?
本気にしなかった私に、宥久子さんは細かに説明した
肺がんの末期で、もう手遅れだとのこと
余命は、良くて1年だと
私は、落ち着いてその言葉を噛み砕き
末期の人でも、治ったと言われる薬や民間療法を
お願いだから試して、と、次々に紹介した
「 そういうの嫌なの。私が頑固なの、知ってるでしょ?」
うん・・・知ってる
言葉が、そのまま出ずに、私は、泣いちゃいけないのに
受話器握りしめながら、嗚咽した
宥久子さんは、ハハハと笑って、申し訳なさそうに言った
「 ごめんね、山村さん、泣かせちゃって 」
宥久子さんは、私のこと、「山村さん」と呼ぶ
女優さんを、下の名前で呼ぶのは失礼だとか言って
でも
すでに私達はヘアメイクと女優の関係ではなかったけどね
ただ、最初の出会いは、仕事、連続ドラマだった
もう、25年近く前
「あぶない少年」と言う、テレビ東京の
SMAPのドラマデビュー作品
私は、フランス語教師の役柄で出演し
彼女はスタッフ、ヘアメイクさんだった
半年間、そのドラマで仕事を一緒にした後
プライベートでも会うようになり
でも、プロモート用の作品撮りもしたいと言われ
1、2年に1回、作り続けていたから
仕事も絡ませながら、付き合っていたんだと思う
でも、そのうち
他の友人に話せないようなことも
宥久子さんには、話せるようになっていった
宥久子さんも、同じように
あらゆる、色んな悩みを打ち明けてくれた
毎日、2時間も3時間も長電話で、色んなこと、話したね
全部、人には言えないことばかり
宥久子さんは、いたずら好きでもあった
ほんの、10年ちょっと前だったかな
中央線国立駅近くのフランス料理店に招待された
国立は、宥久子さんの家の近くで
私にとっては学生時代を過ごした思い出の場所
桜の時期には、宥久子さんと私
二人で訪れて、桜並木を、何度も散策した街
時には、街路樹の下のベンチに座り
缶ビールを飲みながら、何時間もお花見したっけ
でも、その日は、桜は咲いていなかったと思う
宥久子さんは、テーブルの向こう側で、切り出した
「 私、山村さんに、謝らなければならないことがあるの 」
どうしたんだろ、真顔で
「 ずっと、私、山村さんと同い年って言ってたけど
実は、10歳上だったの 」
私は、鳩が豆鉄砲食らったように驚いて、言葉を失った
すでにその時
私達の付き合いは、15年近くだった訳で
しかも、毎日連絡取り合うような、深い関係
宥久子さんは2月生まれ、私は11月
学年は1年お姉さんだけど、同い年生まれの、同い年
そう、ずっと思い続けていた
宥久子さんは、出会った頃から、あの帽子と眼鏡で
年齢不詳だから、年下にも、年上にも見え
同い年と言われたら、信じるしかなかった
「 言ったら信じたから、でも、こんなに長く騙されるなんて 」
ハハハと、宥久子さんは笑った
「 ホント、ごめんね
いつ本当のこと言おうか、何年も、迷っていたの 」
宥久子さんの笑った時の口元は、とても美しいと
いつも思う
でも、2003年に私がNYに行くことになり
二人の仲は、疎遠になってしまった
東京とNYという距離だけのせいではなかった
時、同じくして
宥久子さんの化粧品や造顔マッサージが人気となり
宥久子さん自身が、カリスマとして名前を知られ
忙しくなったこともある
私が、NYから2008年に戻ってきた時には
彼女は、スケジュールが管理され
なかなか会うことも出来ないようになっていた
正直、とても寂しかった
たまに会えても、少し距離を置かれて、敬語になっていた
だから、この2年位、時々しか話していなかったと思う
でも、そのうち
彼女が仕事のことで悩んだりすることがあり
ふと電話があったり、呼び出されたりして
話を聴かされる回数が増えていった
再び、敬語も少なくなって、元の関係に戻りつつあった
ちょっと、嬉しかった
ガンがわかった後は、家にいることが多くなり
テレビを見る機会が増えたのだろう
私が毎日出演していた番組「PON」をチェックしてくれた
「今日の化粧は、何?」
「もっと笑わなきゃ」
「最後のエンディング、嫌そうにやってんじゃないの?」
私の表情が硬く見えたのだろうか
手厳しい、いつもの、辛口宥久子さんだった
その翌日から、私はエンディングでは
思いっきり手を振って、笑った
宥久子さんに向かって
抗がん剤治療のため2、3週間に1回入院する病院は
私の家近くだったから、フラリと病室に何度も寄った
今までの二人の歴史を辿るように
思い出を語り合った
彼女が食べられないから、食べて、と強く言われたので
私が、彼女の病院食を口に入れている時だった
味は、悪くなかった
「 あのさ、天に召されるのは、夏までぐらいらしいよ 」
と、人ごとのように彼女が言った
胸が詰まった
「 じゃ、春になったら、お花見、私の車で行こうよ
国立まで、連れてってあげる」
「 国立かぁ〜、行きたいな〜 」
生きている彼女に、最後に会ったのは、今月8日
病室に入ると
抗がん剤も効かなくなってしまった宥久子さんが
一旦退院するための準備を整えた所だった
一人、ポツンとのベッドの上で、上半身だけ横たえていた
事前に、主治医の先生が
元気に、今お喋りしていましたよ、と言ってくださったから
訪れたお見舞いだったけど
ほんの少し会話した後
息が苦しそうな宥久子さんが言った
「 あのさ、今、私、辛いのは、喋ることなの」
・・・そっか・・・
お医者様に気を遣って沢山話したからね
わかった、じゃあ、またね
スタスタと、病室のドアを出る私の背に
振り絞るような声が、追いかけてきた
「 ありがと〜、ありがと〜、ありがとね〜 」
宥久子さんのガンがわかった後
色んな方が、著名な治療を薦めてくださって
断りきれずに、試したと言う
「 みんな、私に造顔マッサージして欲しいからね
だから、生きていて欲しいのかな 」
私にとってみれば
美のカリスマも、造顔マッサージも関係ない
実際、私自身、宥久子さんにマッサージをしてもらったのは
逆に、友人だから少なくて、数える程しかなかった
マッサージ出来なくてもいいから
生きていて欲しかった
「宥久子さん」でありさえすれば良かった
亡くなった、その時間
後で考えると、私の朗読ライヴが終わっての帰り道
ちょうど病院の前を車で通った時だ
あの時だったんだ
ご遺体が、病院から自宅へ、翌日運び込まれた
ベッドに休んでいる宥久子さんに、会いに行った
本当に、お肌がピカピカで、きれいで
10歳上どころか、うんと若く、年下にさえ見えた
美しかった
どうやってもこうやっても
寂しくて、悔しくて、哀しくて
腹が立って、苦しくて、切なくて
どうやっても、こうやってもだ
今日も、桜が、きれいだ
今年の桜の開花は、早かったねぇ、宥久子さん
きっと、宥久子さんに見せたいと思って
神様が、いたずらしたんだよ
でも
私は、やっぱり昔のように
あの国立の桜並木、一緒に見たかった
ただ、それだけ